漱石がいた熊本
定価:
2,530
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2,300
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はじめに
一 暮らし
熊本到着
①心にとどめた新坂の風景
②「森の都」とは言っていない
③借家の少なさに不快さも
住居
①引っ越しの顚末―七軒のうち三軒が現存
②「敗屋」こそが光琳寺町の家
③間数の多い合羽町の家
④曲折経て残る大江村の家
⑤空襲で焼失した井川淵町の家
⑥増築された内坪井町の家
⑦唯一漱石の希望で転居した北千反畑町の家
暮らしぶり
①所得税一八円で「長者」の一人に
②東京と熊本の風呂事情
③漱石が吸った煙草
④本当は犬派だった漱石
⑤年賀式に愛媛中校長・住田も出席
戦争
①日清戦争の凱旋出迎え
②徴兵忌避は漱石だけではない
③調子外れで軍歌を歌う
二 家族
漱石誕生
正月生まれの金之助
父母
①父(上)―父に抱いた複雑な感情
②父(下)―後年変化した父への思い
夫婦
①結婚式(上)―明治二九年六月一〇日挙式説
②結婚式(下)―婚礼は九日夕、一〇日夕は雨
③挙式六日後に明治三陸地震
④オタンチンノパレオラガス
⑤妻を詠むまなざし
⑥鏡子の「身投げ」は事故
⑦ 筆子の誕生と乳母車
三 教師生活
松山時代
①松山では校長排斥運動に嫌気
②「愚見数則」で心情を吐露
③二九歳の春、熊本へ
英語教師
①期待を受け五高の英語教師に
②尊敬された真面目な英語教師
③敬服する学生たち
④福岡、佐賀の中学校参観(上)
⑤福岡、佐賀の中学校参観(下)―英語力低下を憂える
⑥五高入試(上)―応用利かぬ英語を嘆く
⑦五高入試(下)―聴き取り問題の重視
⑧漱石の済々黌講師説は誤り
⑨熊本時代に英文学評論を三本発表
端艇部部長
①スポーツマン漱石
②新聞に「夏目部長」と明記
③部長辞任のいきさつ
学校人事
①漱石が行った人事(上)―恨みは買っていない
②漱石が行った人事(中)―「教師放逐」を建議
③漱石が行った人事(下)―能力・人柄重視
学校行事
①開校紀念式「祝辞」(上)―代筆論争
②開校紀念式「祝辞」(下)―間違いなく発想は本人
③立錐の余地もない「近来稀の運動会」
④済々黌と鹿児島県尋常中の大騒動
⑤行軍演習だった修学旅行
⑥各地で生徒の歓迎を受けた修学旅行
⑦最初の修学旅行で天草島原へ
⑧拝賀式での不敬事件
⑨五高での天然痘騒ぎ
⑩自炊記念日で熊本、鹿児島県人が衝突
⑪招魂祭―五高生も撃剣披露
四 旅行・俳句
旅行
①新婚旅行で福岡の名所旧跡へ
②久留米旅行と「漱石の道」
③「草枕」の旅(上)―出発日は二八か二九か
④「草枕」の旅(中)―野出にもあった峠の茶屋
⑤「草枕」の旅(下)―「小天」が舞台と地元は直感
⑥耶馬溪の旅
⑦阿蘇登山、通説「四泊五日」の真偽
⑧「二百十日」には「出張記録」が使われた
俳句
①漱石が聞いた午砲
②紫溟吟社(上)―内坪井町の家で誕生
③紫溟吟社(中)―陸軍、町方の有志も参加
④紫溟吟社(下)―選句はしても指導はせず
⑤紫溟吟社の終焉
⑥もう一人の漱石
⑦紫溟吟社以前(上)―無名氏、失名は漱石
⑧紫溟吟社以前(中)―「枕水」は安東真人か
⑨紫溟吟社以前(下)―名を伏せた理由
⑩漱石が詠んだ自転車の句
⑪藤崎宮大祭の藤祭りを詠む
⑫五高雑詠に確かな漱石の足跡
⑬多く詠まれた「水前寺」「江津湖」の俳句
⑭俳句より漢詩を披瀝
五 漱石をめぐる人々
書生
最初の書生・俣野義郎
狩野亨吉
①漱石、中川の要請で五高に赴任
②漱石との交流を記したメモ
③一高校長へ転任
寺田寅彦
①点を貰いに漱石を訪問
②明治の熊本で青春謳歌
③俳句で結ばれた師弟の縁
山川信次郎
①一高転任へ漱石が尽力
②醜聞事件で一高を去る
③五高に再奉職、そして再び東京へ
森鷗外
鷗外来熊、一日半の滞在で史跡巡り
六 英国留学と帰国後
英国留学
①「高等学校教授初」の留学は誤り
②豪雨の合間、列車で熊本を発つ
③往復書簡にみる夫婦の絆
④申報書(上)―留学生活の転換を示す
⑤申報書(下)―過酷な留学生活を証明
⑥子規の訃報に「慚愧の至」
帰国後
①漱石、惜しまれつつ五高辞職
②「三四郎」は漱石が見た熊本時代の五高生
③熊本体験が名作誕生へ
あとがき
熊本時代の年表
参考文献