幕末維新期における教育の近代化に関する研究
近代学校教育の生成過程
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序章
一 課題の設定
二 研究方法
三 本研究の構成と問題の所在
第一章 幕末期の国際的環境と教育の近代化
問題の所在
第一節 蕃書調所=開成所における「学政改革」
一 蕃書調所の創設
二 開成所の「学政改革」
第二節 海陸軍所の軍制改正との連携
一 海陸軍所の軍制改正
(一) 能力主義の徹底
(二) 教育内容の変更
(三) 海陸軍所の合併
二 外国人教師の提言―基礎教育の必要性―
第三節 啓蒙活動と教育の近代化
一 西周の『万国公法』
二 「中外新聞」の発行
三 昌平坂学問所の洋学講義
第二章 維新期における近代学校への模索―静岡藩沼津兵学校―
問題の所在
第一節 学校規則の推移
一 明治元(一八六八)年―近代的な陸軍士官養成―
(一) 教育の目的
(二) 「普通学」の採用
(三) 「掟書」にみる近代性
二 明治二(一八六九)年―兵学校から文武学校へ―
(一) 「徳川家沼津学校追加掟書」
(二) 「文武学校基本並規則書」
三 明治三(一八七〇)年―静岡藩の上級学校―
(一) 「小学教員」養成
(二) 「静岡藩小学校掟書」
第二節 沼津兵学校における教育の実態
一 教官の担当教科
二 予備教育の時間割
三 授業内容と学校生括
(一) 兵学校
(二) 附属小学校
四 沼津兵学校教員・生徒の進路
(一) 人材推挙に貢献した勝麟太郎の役割
(二) 兵学校出身者の出仕
第三節 沼津モデルの全国的な展開
一 他藩員外生の受け入れ
(一) 福井藩員外生受容の経緯
(二) 福井藩員外生の実態
(三) 他藩員外生受容の教育史的意義
二 静岡藩の御貸人派遣
三 静岡藩御預人の実態
第三章 幕末維新期福井藩校における教育の近代化
問題の所在
第一節 幕末期藩校明道館における学校改革
一 諸藩の情報収集―村田氏寿『関西巡回記』から―
二 明道館における「学風改革」―洋学の導入―
第二節 維新期藩校明新館における学校改革
一 明新館の開校
二 教育内容の刷新―中学校「普通ノ学」の規定―
三 明新館における教育の実態
(一) 「公務取扱記」から
(二) 「子弟輩」の分析から
(三) 福井藩重臣中根雪江、村田氏寿の書簡から
第三節 文武学校の終焉
一 文武学校から近代学校へ
二 文武の解職―中央官僚と地方官吏の輩出―
第四章 福井藩の国内遊学にみる教育の近代化
問題の所在
第一節 国内遊学のはじめ
一 西洋砲術の採用
二 文武・医術修行の奨励
第二節 国内遊学の展開
一 「他国修行」の制度化―学監心得橋本左内の意見書―
二 学習内容の多様化
三 遊学と藩校明新館学校改革の連携
四 遊学の普及と私費遊学のすすめ
第三節 家臣団履歴にみる遊学の実態―「士族」「子弟輩」を中心として―
一 遊学者の身分と年齢
二 遊学の時代的変遷
(一) 砲術修行―航海術修行―測量術修行
(二) 医術修行
(三) 学問修行
(四) 洋学修行・英学修行
(五) 兵学修行・喇叭修行
三 遊学後の経歴
第四節 静岡藩沼津兵学校への遊学
一 若代正(漣蔵)の沼津遊学
二 若代正(漣蔵)のノートにみる沼津兵学校の数学教育
(一) 沼津兵学校における数学教育の日本における位置
(二) 若代正(漣蔵)の数学ノート
(三) 土屋智編輯『筆算速知』
三 遊学と教育の近代化
【付記】廃藩置県後の遊学―育英団体・輔仁会の設立―
第五章 「普通学」の概念の変遷と市民観
問題の所在
第一節 先行研究の整理
一 倉沢剛の小学校における「普通学」
二 井上久雄の「普通学」
三 武田晃二の「普通学」「普通教育」
四 水原克敏の「普通学」
第二節 「普通学」の概念
一 基礎教育と専門基礎教育
二 「普通」ならびに「普通学」の概念
第三節 諸藩における「普通学」の規定
一 初等教育段階と中等教育段階
二 静岡藩沼津兵学校における専門基礎教育
三 基礎教育の展開―文武学校から近代学校へ―
第四節 西周の「普通学」
一 学問体系としての「普通学」
二 西周のコモン・サイエンスと市民観
三 「普通学」と教育の近代化
第六章 明治政府における新しい学校構想
問題の所在
第一節 政府首脳による学校構想
一 松代藩士長谷川昭道(深美)の学校構想
二 漢学者松岡時敏の学校構想
三 国学者福羽美静の学校構想
四 維新官僚の学校構想
第二節 東西大学校問題
一 「東西同一」大学校の存在
二 大学校における派閥対立―三学合併による収拾案―
三 政府の方針に対する諸藩の反応―尼崎藩公用人服部清三郎の記述から―
四 政府の方針に対する漢学者の反応―大学少監仙石政固「学制大意」から―
五 大学大博士平田銕胤の反応
第三節 京都学校の設立
一 「大学校調局」の設置
二 「大学校代」の開校
三 「大学規則」成立と京都学校の廃止
第四節 京都学校存続と経済的問題
一 大蔵省と京都学校
二 京都学校運営経費の実際
第七章 明治三年「大学規則」成立過程にみる教育の近代化―大学別当松平慶永「魚雁録」を中心として―
問題の所在
第一節 大学別当松平慶永による学制改革の経緯
一 「学神議事」の取り扱い
二 学校行政官の権限の明示化
三 学則案の回覧
四 宮中大学校の存在
五 慶永の学制改革の決意―プロイセン学校規則への傾倒―
第二節 「大学規則」成立への反発
一 「学風変換」に対する反発と京都学校の動き
二 プロイセン学校規則浮上の背景
三 「大学規則」「中小学規則」の成立
第三節 大学本校廃止の背景とその意義―南校・東校の存続―
一 大学校教官並びに生徒の反発
二 「廃丞論」の真実
三 欧米大学規則の取捨選択
四 「大学規則」の教育史的意義
第八章 明治初年の大学校問題と国学―「平田家資料」を中心として―
問題の所在
第一節 集議院諮問「釈奠廃止・漢籍廃止」の争点
一 大学校大博士平田銕胤の主張
二 平田延胤「弁 大学校規則答議 弁 十三藩妄議」
三 平田延胤の「和魂万国才」
第二節 国学者と洋学者の連携
第三節 大学本校廃止の真相
一 大学本校廃止に至る経緯
二 国学者内の軋轢=学問論争
三 大学における祭政一致と「神教学・修身学」
四 大学校問題と教育の近代化
第九章 明治初年大学校・大学における学神祭の執行と終焉
問題の所在
第一節 学神祭の執行
一 大学校における学神・学神祭
二 学神祭に対する漢学者の反発と諸藩の動向
三 京都学校への学神遷座
四 学神遷座の真相
第二節 京都学校における学神・学神祭
一 玉松真弘・矢野玄道の学神思想
二 京都国学者の強硬策
三 国学者からみた大学校・大学の顛末
第三節 学神祭の終焉
一 京都学校学神の行方
二 大学本校学神の行方
三 大学における年中行事の変化
四 学神祭終焉と教育の近代化
終章
あとがき