与謝野寛晶子の書簡をめぐる考察
『天眠文庫蔵与謝野寛晶子書簡集』『与謝野寛晶子書簡集成全四巻』
定価:
4,180
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3,800
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凡例
はじめに 四つの与謝野研究
(一)『評伝与謝野鉄幹晶子』一巻と『新版評伝与謝野寛晶子』三巻
(二)『与謝野晶子全集』二〇巻と『鉄幹晶子全集』四〇巻
(三)『天眠文庫蔵与謝野寛晶子書簡集』一巻と『与謝野寛晶子書簡集成』四巻
(四)九冊の歌集全釈―鉄幹(寛)三冊、晶子六冊
第一章 明治期の書簡
第一節 明治二五年から二九年にかけて
徳応寺時代の鉄幹書簡二通
浅香社時代―忌日を予知する鉄幹
小中村義象と海上胤平への鉄幹の思惑
金子薫園との友好
第二節 明治三〇年から三二年にかけて
心揺れる若き日の鉄幹
中学生へ送った晶子書簡
明治三二年代の鉄幹書簡二通と葉書一通
①鉄幹の浜寺ゆき
②当時の詩歌壇への鉄幹の酷評
③「荊妻妊娠」と出産
第三節 明治三三年
男の優しさと憎らしさ―酔茗・鉄南と雁月
たわいもない乙女心―雁月に対して
「明星」経営の困窮と晶子の評判
明子の一週間上京―鉄南への思慕 兄の無理解
連日の鉄南宛て晶子書簡二通―鉄幹と出会うまで
広江酒骨宛て晶子書簡二通(『みだれ髪』2首)、鉄幹書簡一通
思慕は一転して「われはつミの子、君もつミの子」へ
晶子宛て鉄幹書簡
宅雁月宛ての晶子と鉄幹書簡
寺田憲宛て鉄幹書簡一七通(明33~42)
第四節 明治三四年
明治三四年という年
粟田山をめぐって―若き日の二人の書簡とその所在
河井酔茗宛ての晶子と鉄幹書簡
晶子の悩み―鉄幹への最古の書簡
鉄幹への恋情―晶子書簡三通
「辨疏ハ無用」の言
明子の瀧野宛て、酔茗宛て書簡一通ずつ
上京間近の二人の書簡
晶子上京の杞憂―二人の書簡
瀧野宛ての破格な鉄幹書簡と晶子の感慨
上京後の新詩社
第五節 明治三五年から三九年にかけて
鉄幹の苦闘と天眠の縁談
ゾラとドレフェス事件
貧困と韻文朗読会
『魔詩人』
貧困との戦い
無断転用への鉄幹の抗議
企画に揺れる鉄幹
「別号うもれ木」(鉄幹)
寛の病、花子と登美子のことども
「日本武尊」と「源九郎義経」
天佑社の企画
光と安也子の生誕は一年違いの同月同日
「明星」の原稿依頼に執心する鉄幹
鉄幹の戦争批判
鉄幹の病気
次男秀誕生(明37・6・22)
志知善友による寛の動揺―秘蔵の晶子書簡(明39)
第六節 明治四〇から四五、大正元年にかけて
覇気のない書簡類
「明星」廃刊と寛の自然主義論
万里と酔茗宛ての晶子書簡
天佑社企画全身と寛の渡欧への期待
晶子の「源氏口語訳」と寛の協力
憲・鷗外宛て寛書簡と万里・白秋宛て晶子書簡
山川登美子追悼の二人の書簡
寛の詩作への懸命な迫力
明治四三年には二人の著作二冊ずつ出版
寛七通、晶子一通あり
明暗の人生さまざま
寛の渡欧の夢叶って
晶子の渡欧を勧誘する寛
夢の叶った晶子
子を恋うる母心は帰国へ
無造作な姿と自省の思い
愛児らに迎えられた涙ながらの晶子
「亡国の空気」漂う巴里と美しい「巴里の女」―晶子の感性
絵が描きたい
疲れ切った帰国姿
一人残された寛の寂しさ
せめて一年でも巴里に残りたい―寛の心情
巴里で著名な晶子
山本鼎が褒めた晶子の絵、心なぐさみに描く寛
船中より金銭不足を訴える寛
第二章 大正期の書簡
第一節 大正二年から四年にかけて
帰国する寛を迎える晶子
寛の佛蘭西仕込みの姿
滞欧体験に見る異なる感性
寛の暗鬱―詩壇復帰不能と子供虐待事件
アウギユスト誕生(大2・4・21)
和田大円の暴言と寛の追想歌
『新訳源氏物語』完結
「スバル」廃刊
「源氏口語訳」の遷延『新訳栄華物語』への寛の協力
晶子の絵が泣菫詩集の挿絵に
「台湾愛国婦人」とは
晶子の百首屏風
「明星」再興勧誘を断念
平出修の死
「源氏口語訳」と天眠依頼の屏風
晶子の童話『八つの夜』
エレンヌ誕生(大3・11)
寛の家出事件
懺悔の思い
前年の悩みを引き摺って
寛の出馬
金尾文淵堂と『歌の作りやう』・「源氏口語訳」
一枚抜けていた「源氏訳」原稿
第二節 大正五年から七年にかけて
五男健の無痛安産(大5・3・8)
和田大円の洋行費再催促
「明星」復刊の勧誘と色紙と短冊の買い取り願い
上田敏の死 ①文人としての上田敏
②「明星」、寛と晶子と敏との関わり
③敏の逝去前後
一五歳の安也子と遊ぶ晶子
安也子と克麿
揮毫と旅
六男寸(そん)の誕生(9月20日)と死亡(22日)
実子萃(あつむ)への寛の伝言
寛の再出馬への誘い
「明星」復刊の機運と諦念
晶子懐紙千首会―「明星」基金として
「コハン」と「小林」の聞き違い―迪子を巡って
天佑社と「晶子源氏」
「源氏口語訳」の遅延
第三節 大正八年から一〇年にかけて
「源氏原稿」を急かす天眠と晶子の哀しい魂胆
藤子誕生(大8・3・31)
『源氏物語』は紫式部ともう一人の作者あり
安也子と克麿
「源氏物語礼讃歌」の成立
書簡にみる旅の歌
晶子の怪我
続けて安也子と克麿のことども
西村伊作という人
文化学院創立
「明星」復刊
二人の旅
第四節 大正一一年から一四年にかけて
当時の歌壇に対する寛と晶子の姿勢
天佑社倒産
森鷗外の死
鷗外と寛、晶子との関わり
『鷗外全集』資料と出版
二人の旅の歌
続けて『鷗外全集』
関東大震災による被害 ①地震の惨状と「源氏口語訳」の焼失
②天佑社整理の状況と文化学院の復興
③「明星」休刊の気配と文化学院
「明星」休刊―持続計画への執心
前年に続けて『鷗外全集』
「明星」存続の労苦
書簡にみる二人の旅の歌
「明星」の経営困窮
『日本古典全集』着手当初は順調
『鷗外全集』と『日本古典全集』
晶子と寛の短歌指導
二人の旅の歌
第三章 昭和期の書簡
第一節 大正一五年、昭和元年から三年にかけて
荻窪の新築始まる
寛と蓮月との関わり 『日本古典全集』の作品
七瀬の結婚
「明星」にみる『日本古典全集』の消息
『日本古典全集』の好調から破綻へ
正宗白鳥と敦夫の提言
「明星」終刊以前から「冬柏」創刊まで
荻窪の家
書簡にみる二人の旅の歌
光と迪子の結婚(昭3・4・10)
次男秀の巴里赴任
晶子の血圧亢進
書簡にみる二人の旅の歌、御即位礼の儀の晶子歌
第二節 昭和四年から七年にかけて
七瀬の夫の死(昭4・5・2)
晶子生誕五十年の賀筵
書簡にみる二人の旅
「冬柏」創刊
晶子生誕五十年記念頒布会―貧困に喘ぐ二人
二人の旅
里子に出された佐保子
「旅かせぎ」
『女子作文新講』と寛の協力
平野万里に対する寛の熱い思い
歌壇への対抗―白秋の理解
四つの詩
二人の旅の歌
第三節 昭和八年から一〇年にかけて
寛の還暦祝賀―祝宴、展覧会、全集
北原白秋宛ての寛書簡―親密と感動をこめて
二人の旅の歌
九年になっても旅を続けて来た二人の歌
生きて「語原考」を完成させたい
寛の短歌の指導のあれこれ
わが新詩社歌壇の外に
寛の生涯
寛の昇天
寛亡き後
追悼の数々
旅の歌
告別の前後
第四節 昭和一一年から一七年にかけて
寛の一周忌
寛、晶子の著書展覧会
宇智子への優しい母心
晶子の第一回目の脳溢血とその発症期日の誤報
病後も続く歌作の旅
『新万葉集』出版への尽力 ①準備から完結へ
②書簡にみる『新万葉集』
③『新万葉集』の寛と晶子、礼厳の歌
『平安朝女流日記 蜻蛉日記』刊行
晶子の体調と寛筆の晶子文字
晶子は病と闘いつつ『新新訳源氏物語』執筆
旅の歌
第二回脳溢血の発症前後 歌作りの旅
あとがき